2019年2月25日の神戸新聞で、幕末の姫路藩主であり幕府の大老を務めた酒井忠績(ただしげ)の墓所が管理料の未納により撤去の危機にあるとの記事に触れました。
井伊直弼が桜田門外の変に倒れ、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる中にあって幕府の重職を担うのは、まさに火中の栗を拾うがごとくであったかと思われます。同じころに、会津藩は、京都守護職の受任に「薪を背負って火を救おうとするようなもの」と藩主家臣ともに涙したと伝わります。
忠績は、まさに火中の栗をひろい、一時期、主家である徳川家のため、ひいては日本のために重職につき日本の舵取りを担いました。そんな人の墓所が管理料の未納ということで撤去され、無縁仏にというのはあまりではないでしょうか。今回は、酒井氏のこと、酒井忠績のことをご紹介しながら、真に勝手ではありますが、墓所の保全についても思案してみたいと思います(2019年2月26日最終更新)
報道の内容
江戸幕府最後の大老 酒井忠績の墓が撤去の危機に 2019年2月25日 神戸新聞
江戸幕府最後の大老で姫路城主だった酒井忠績(ただしげ)(1827~95年)が眠る東京都立染井霊園(東京都豊島区)内の墓の継承者がいなくなり、無縁墓として撤去される可能性が高まっている。管理料の支払いが途絶えて5年以上が過ぎ、霊園を管理する東京都の条例に基づき、撤去の対象になった。そばに立つ顕彰碑文が刻まれた記念碑も同様に保存が難しくなっており、地元の姫路では「偉業の証しが消えるのは残念」と惜しむ声が上がっている。(宮本万里子)
酒井雅楽頭家
酒井忠績は、徳川家康の祖松平親氏の子酒井広親の次男酒井家忠の家系である酒井雅楽頭家の16代にあたります。雅楽頭家は、家康の重臣酒井正親・重忠、幕府の大老酒井忠世・酒井忠清(下馬将軍とも)を輩出するなど、徳川譜代の中でも屈指の名門でした。
酒井忠世以来、前橋藩(群馬県前橋)を治めていましたが、風水害による利根川の氾濫・浸食の悩まされ、9代藩主忠恭は老中首座となったのちに、同石高(15万石)でも実入りが多いと考えられた播磨姫路藩への転封を画策し、実現しました。
この前橋から姫路への転封については、家老川合勘解由左衛門が「家康公が当家を前橋という要衝に配した理由を考えると転封を願うは不忠」という考えから反対し、転封後に推進派の家老本多光彬、用人犬塚又内を殺害した事件が有名です。松本清張の「酒井の刃傷」が小説であってもかなりリアルに描いています。小説では勘解由左衛門が老人として描かれていますが、事件のときには46歳であったことは今回はじめて知りました。
幕末の大老 酒井忠績
酒井忠績は、姫路藩の分家から養子に入り、万延元年(1860年)に当主となりました。会津松平容保が京都守護職を拝命する前の京都の治安維持に京都所司代臨時代行としてあたったのが忠績でした。その功績も認められ、文久3年(1863年)には老中首座になり、兵庫開港に関する朝廷との折衝にあたります。一時老中を退いたのちの元治2年(1865年)には大老となり、第二次長州征討の事後処理、幕府軍の西洋化などの改革も行っています。
藩内では勤皇派の制圧も行ったこともあり、慶応3年(1867年)には弟である忠惇に家督を譲っています。忠惇は、鳥羽伏見の戦いにおいては、松平容保と似た境遇に置かれます。徳川慶喜と同道して江戸にもどり蟄居となるのです。
慶喜の恭順にならい、忠績も忠惇とともに江戸で謹慎していましたが、徳川家への新政府の対応に不満を持った忠績は、江戸の大総督府に対して「酒井家はあくまで徳川家の臣であり、天皇家に主家と並んで仕えることはできない。所領の没収を望む」と嘆願書を提出し、徳川家譜代の臣として筋を通しました。
姫路藩では、そんな忠績も忠惇の扱いに苦慮し、分家筋の当主をたて、15万両の軍資金を献上するなどして藩の存続を図りました。忠績と忠惇は静岡藩にお預けとなり、後に2人とも元大名として男爵を授けられています。そして明治28年に忠績は波乱の生涯を閉じ、染井霊園に眠っています。
墓所の保全
墓所の保全について、関係者でないにも関わらず勝手なことと承知していますが、少し思案してみます。
報道では「墓の継承者がいなくなり」とのことでしたが、雅楽頭家16代当主の忠績から8代目にあたる雅楽頭家24代当主の方がご健在の様子です。可能であれば、先祖の祭祀を継ぐかたちで管理料の納付により撤去されることのないようしていただくのが良いように思いますが、それができない事情があるのかもしれません。
次善の策としては、雅楽頭家15代当主までが眠る前橋藩主酒井家菩提寺大珠山是字寺龍梅院への改葬です。龍梅院は、前橋から姫路に酒井氏が移った後もその地で菩提寺であり続けました。酒井家は幕府の重責を担うことが多かったことから、おそらく江戸で亡くなる藩主も多かったのでしょう。
酒井雅楽頭家顕彰会という組織も龍梅院のWebにありました。こちらの団体にも期待したいところです。
改葬にも子孫の方の承諾が必要なのかもしれませんし、ある程度の費用も想定されます。忠績自身が、亡くなった時に龍梅院を墓所としなかった何かの理由もあるのかもしれません。
そのほか、様々な保全の方策があること思います。ただ一律に条例に沿っての扱いではなく、史跡や文化財としての価値、一時であっても激動の日本の舵をとった人の墓であることなど総合的に考えての対応を望みたいと思います。
この問題について、進展がありましたら更新いたします。