明治維新の火付け役 清河八郎 その足跡をたどる

投稿者: | 2019年4月13日

清河八郎、明治維新の火付け役と呼ばれるこの人物がいったい何者であったのか…その死から約150年以上のときを経ても底知れぬ感が拭えないのは私だけではないものと思います。

清河八郎が純粋な攘夷論者であったのか、それとも攘夷は討幕の道具としてのものであったのか、討幕を意図するならば清河は幕府を倒しその後に何を目指していたのか?わからないことばかりです。

そんな清河八郎のことを考えながら、東京に遺された清河ゆかりの地を歩くことにしました(最終更新2019年4月13日)

北辰一刀流玄武館跡

まずは、清河の江戸での活動開始の場ともいえる千葉周作の北辰一刀流玄武館跡を訪ねます。清河八郎をはじめとして幕末の高名な志士は剣の達人であることが多いのには驚くところです。

江戸三大道場の一と称された玄武館は神田於玉ヶ池(現千代田区岩本町)は、都営新宿線の岩本町駅からすぐのところにありました。

玄武館跡碑

清河は、玄武館で剣を収めた(免許皆伝)のち、自らも於玉ヶ池に学問と剣術の両方を教える文武教授の看板を出し教育にあたるとともに同志を募っています。のちのヒュースケン暗殺には清河が率いた虎尾の会の伊牟田尚平らにより引き起こされています。

【幕末】学者のまちに剣術道場 北辰一刀流「玄武館跡」で幕末を想う

小石川伝通院

次に、清河の献策により新徴浪士たちが参集した小石川伝通院に向かいます。向かう途中に思うのは、もしも清河がいなかったらということでした。ヒュースケン暗殺がなかったかもしれない、寺田屋事件がなかったかもしれない、試衛館の面々は上洛することなく新撰組は結成されなかったかもしれない、そうなれば会津藩があそこまで怨まれて追い詰められることもなかったかもしれない…など直接的ではないにしても、幕末史への影響が計り知れず様々なことが頭を巡ります。

伝通院

文久三年(1863年)2月4日伝通院内の処静院にて浪士組総勢250名が集いました。伝通院は徳川将軍家菩提寺で、徳川家康の母於大の方や千姫の墓所もこちらにあります。幕府のためにという気持ちが高まりそうな場所でもありますね。一同は将軍家茂上洛時の警護のために、5日後には京へ旅路につきます。

千姫墓所

伝通院には往時の建物はありませんが、処静院(幕末に廃寺となる)門前の石柱が遺されています。浪士隊の加わった近藤勇らもこのひと際目立つ石柱の文字を読んだかもしれません。芹沢鴨などはお酒が好きそうなイメージですが、処静院内ではこの石柱どおり素面(しらふ)だったでしょうか…。それともそんなことは無視してお酒を飲んでいるのが芹沢らしいでしょうか。

伝通院処静院石柱

清河八郎受難の地

文久3年4月13日、古川に架かる一之橋(現麻布十番駅近く)で清河八郎は最期を遂げました。清河の策謀の元で結成され、将軍家茂の警護という名目で上洛した浪士組が一転、幕府でなく朝廷のために攘夷の魁となるという浪士たちさえ戸惑うような方向転換をし、来た道を引き返して江戸へ帰ってわずか18日目のことでした。

麻布一之橋

暗殺は、幕府を踏み台にして勢力を築き、挙句の果てに朝廷の命として攘夷を幕府のお膝元近くで断行しようとする態度に面子を潰された板倉勝静の命を受けた佐々木只三郎らによるものでした。

のちの新撰組の伊東甲子太郎もそうですが、自分の道場の子弟以外の大きな勢力を我が物にして大望を成し遂げようとするには、策を用いて内部に勢力をつくり、機をみて組織全体を自分の思想に塗り替える(ひっくり返す)のが手っ取り早かったのでしょう。

近藤勇土方歳三らがその策に乗らなかったことは策士(清河、伊東)としては意外だったのかもしれません。清河、伊東ともに同じような最期を遂げているのも偶然ではないのでしょう。

麻布一之橋(大江戸今昔めぐり)

現在の麻布一之橋には、清河が暗殺されたことを示す案内板や石碑などは何もありません。少し残念に思うのは私だけではないと思います。

清河八郎墓所

清河八郎が襲われたことを知った、同志石坂周造は機転を利かせてその首と同志連判状の確保に成功します。そしてその首は伝通院裏の山岡鉄舟宅に届けられます。

山岡も虎尾の会に属する同志で、清河は山岡の屋敷を江戸での拠点としていました。山岡鉄舟と高橋泥舟は親戚で屋敷も隣同士です。下の地図「大江戸今昔めぐり」の中央に山岡家と高橋家は隣同士であることがわかります。

山岡家と高橋家

山岡家では、清河の首の取り扱いにとても困ったようです。その様子は娘の山岡松子が父から聞かされた話として詳細に伝わっています(下記の戊辰物語参照ください)。それでも鉄舟は浪士組ゆかりの処静院の僧琳瑞に依頼して葬り、後に伝通院に墓を建てました。

清河八郎と阿蓮の墓

横の墓石は清河の妾阿蓮のものです浪士隊結成前に清河が人を殺めて幕府のお尋ね者となっていたときに捕らえられ、厳しい拷問にも関わらず清河のことを話さず、獄中で亡くなりました。清河はその死を嘆き、阿蓮を妻と同様として故郷の母にも朝夕の廻向(えこう)を頼んでいます。この手紙からは、清河の温かい優しい一面に触れることができます。

参考文献

今回の清河八郎の江戸での足跡をたどる街歩きでは、主に「戊辰物語 東京日日新聞社会部編(岩波文庫)」に収録されている「維新前後」を参考にしました。

この維新前後の執筆者はのちに「新撰組始末記」を出版する子母澤寛であると推測され、新撰組始末記でも詳しく描かれています。

この2冊を読み、関係する地を辿りますとおよそ150年前の清河八郎の心情に少しだけ触れることができるように思います。

周辺案内図

伝通院

一之橋