2017年10月 日本史新発見ダイジェスト

投稿者: | 2017年10月31日

このサイトがオープンしての初月である2017年10月も様々な日本史に関する新発見・新発表がありました。これまでわからなかったことが解明されたり、通説のようにいわれていたことと異なる状況を示す文書が発見されたりするなど、歴史の奥深さを改めて感じることができました。ここでは備忘録としてそれらをもう一度振り返り、感想なども記したいと思います。そして11月もわくわくするような新しい発見がありますように・・。

2017年10月新発見・新発表一覧




雑記

  • 会津藩士埋葬史料 私自身以前は小説等の影響もあって「会津憎しのために埋葬が翌春まで許されず、遺体は悲しい状況となっていた」という説を事実のように考えていました。今回、戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写しが発見・発表されたことで正直少しほっとした気持ちがします。これまでの通説的に語られてきたことは今を生きる人々にも憎悪を抱かせ、増幅させてきた原因でもあると思います。この発見により、憎しみが薄れていくことを願います。

戊辰戦争で会津藩が1868年9月22日に降伏開城した後の会津藩戦死者約3000人の遺体埋葬で、同年10月に500人超の埋葬に携わった会津藩士が記した史料が見つかった。会津若松市史では、鶴ケ城城下を統治した民政局が「10月2日に埋葬を命じた」とあり、藩士側の記録からも埋葬を裏付ける結果となった。藩士側の埋葬の史料もほかに確認されているが、内容がより詳しい。

出典: www.minyu-net.com

野口さんは「全ての遺体を埋葬したわけでなく、翌年になっても散在する遺体の捜索が続いていた」とした。新政府軍が遺体の埋葬を許さなかったとの言い伝えを完全否定し、「昭和40年代以降に言われるようになった話。新政府軍への遺恨の一つを考え直す契機でもある」とした。

出典: www.minyu-net.com

  • 戦国大名蘆名氏の支城から炭化米 伊達政宗の侵攻に備えるために築城したとされる「柏木城跡」から炭化米が発見されたことで「人が住んで城を守っていた可能性が高い」こと、また蘆名氏以降に改修がなされなかった想定から蘆名氏の城づくりの解明につながることが期待されています。一般的に普段は城には住まずに有事のときに城にこもるとされていますが、もちろん全てが当てはまるのではなく、こういった境目の城で危機が高まっていれば、見張りを含めて最低限の兵は常駐していたと考えたほうが妥当かと思います。「炭化米」については、兵火によるものか、土中で化学変化等により炭化したのか、この城のいくさ歴を知る上でも興味深いところです。蛇足ですが、蘆名氏の蘆名盛氏以降の衰退を知ると悲しい気持ちになります。秋田県角館の現在の反映だけが救いです・・。

天正18年(1589年)、奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原の戦いで大敗した蘆名義広は常陸に逃走し、蘆名氏は没落。実家の佐竹氏に戻った義広は名を「蘆名盛重」と改めて、常陸江戸崎城主となる(江戸崎藩)が、関ヶ原の戦いの際には、旗幟を鮮明にしなかった実兄・佐竹義宣と行動を共にしたために改易。次いで佐竹家臣として出羽国角館城に1万6,000石を与えられたものの、盛重の死後、息子が相次いで病死、最後の当主・蘆名千鶴丸も3歳で事故死したために家系は断絶して蘆名氏は滅亡した。

出典: ja.wikipedia.org

角館 佐竹氏の移封に同行した蘆名氏が築く

  • 滋賀県・野洲の大型屋敷跡 野洲・小篠原に室町期の大型屋敷跡 28日に現地説明会」中日新聞 によると発見場所には室町時代まで寺院があったとされ、「屋敷地は寺院境内に関連する可能性が高い」とのことです。中世の有力のな寺社勢力の遺跡かもしれません。このあたりは、戦国期には六角氏の支配地域であったそうです。

野洲大型屋敷跡

足利尊氏新肖像画についてのTwitter調査

新たな肖像画発見により足利尊氏のイメージに変化があったかをTwitterによる投票による調査を行いました。198人の方のご協力をいただきました。この場をお借りして御礼申し上げます。結果は、「尊氏のイメージが良くなった方が51%」となりました。詳しくは下記をご覧下さい。イメージは実績から考えるのが基本かもしれませんが、現在の政治家同様に歴史上の人物も「見た目」が一定程度イメージに影響するのかもしれませんね。

みんなの感想

2017年11月 日本史新発見ダイジェスト




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